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洞穴へ
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ニュータウン遺跡ハウス 座談会

2014年10月19日 大塚遺跡 建物書道庵にて
出席者:坂上克弘(考古学者)、大迫健(美術教室オリーブ代表)、小澤節子(美術教室オリーブ講師)、木村格(NPO法人都筑民家園管理運営委員会理事、事務局長代理)、吉川陽一郎(アーティスト)、とし田みつお、川口朋美、松本力、有坂蓉子
司会進行:金井聰和

都筑アートプロジェクト2014 ニュータウン遺跡ハウス
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TSUZUKI ART PROJECT 2014 DOCUMENTS
ニュータウン遺跡ハウス座談会
中綴じ冊子/A4版型/14頁/500円/デザイン:本多裕史


金井:お忙しい中、お集まりいただきましてありがとうございます。今日は、大塚遺跡など港北ニュータウンの様々な発掘に携わってこられた考古学者の坂上克弘さんと、地元の美術教室オリーブ代表の大迫さんと小澤さんにお越しいただきました。坂上さんには、この遺跡の発掘当時のお話などを伺いながら、大迫さんと小澤さんには、今回はじめて大勢の生徒さんとともにこの展覧会に関わってくださったことなどを伺いながら、「歴史とアート」、あるいは「街とアート」などのテーマとも関わらせつつ、都筑アートプロジェクトの活動の位置づけや今後の展望などについて考えていけたらと思っています。まず坂上さんから、今回の展覧会をご覧になった率直なご感想などを伺えますでしょうか?

坂上:そうですね、作品を見て何か感じるというか、分かったかというと正直なところよく分かりませんでした。私たち考古学を専門にやっている人間は、物をとにかく正確に見て、土器にしても何にしても物の形を計測しながら正確に表現していかなくてはいけない。それを各地域の物と比較することによって、どんな違いがあるのかというやり方をやってきているんですね。50年近くそれで生きてきましたので、物を見る目というのが多分ある意味すごく狭くなっちゃってて、偏っていると自分自身で思うんです。今日作品を拝見していて、こういう見方っていうのがあるんだなとは思いますが、ではその向こうにあるものは何か、その作家さんはこれを通して何を表現したかったんだろうということは正直見えてこなかったです。すごくある意味難しいというふうに思ったんですね。私自身が今までやってきたものの中からは受け止めにくいものだなとも思いました。昨年一昨年、博物館の職員の人から、ここでこういうのをやってると聞いて見たんです。そして正直分からんと、さっき言ったようなことを言ったところ、その人から、考えちゃいけないよ、見て感じたままでいいんだ、というようなことを言われたのですが、まだそういうふうに自分自身がなりきれていないと正直思いました。

金井:なるほど、やはり考古学の視点で作品をご覧になってくださったということですね。ありがとうございました。では、今回初めてご参加くださった大迫さん、小澤さんに展覧会のご感想など伺えたらと思います。

080f0d_7c845a2aeba940f2bacb37a180a62772.jpg_srb_p_981_652_75_22_0.50_1.20_0.00_jpg_srb.jpeg大迫:その前に今、先生が、作品をどう見ていいか分からないとおっしゃられていたのを伺って思ったのですが、多分作家さんたちの作品と先生がご専門になさっている考古学の分野での例えば土器などの遺物というのは結構似ていて、先生も土器の破片から透けて見えるものというのを多分ご覧になっていたり、目の前のモノからその背後にあるものを想像されたりしているんじゃないかと思いますが。

坂上:それはありますね。

大迫:そういう意味では、美術作品も考古学で扱う遺物などと似たようなものなのかなと。考え次第で読み取っちゃって構わないような気がします。恐らくまあビンビン響いてくると面白いとか、いいとかって評価されるのかもしれませんけど。

金井:大迫さんは、実は大学の先輩に当たる方で、後輩の立場を利用して今回無理なお願いをしました。展覧会にはどのようなご感想をお持ちになりましたか?

080f0d_621ff4d58b5142f096645715a784e1e7.jpg_srb_p_981_652_75_22_0.50_1.20_0.00_jpg_srb.jpeg大迫:美術館なんかだとかしこまって見にいくところもありますが、普段通り過ぎたり、遊びに来たりぶらぶら散歩に来たりする所にいきなりこういうものが出来ていて、馴染んでいる作品もあれば、なんか「おー」って思ったり、普段と違う街の様子があるっていうのは面白いですね。年に一遍くらいこういう展覧会があってもいいじゃないかと思いますね。分からない作品もありましたが、でも、もっと分からなくてもいいじゃないかと思ったりもしました。

金井:今回オリーブさんには、こちらから「お菓子の家」という企画を提案させていただいたのですが、大勢のお子さんたちと参加されていかがでしたか?

小澤:今回お声がけいただいて、最初はちょっと戸惑ったんですが、すごく楽しい1ヶ月だったなと思っています。製作を含めると2ヶ月くらいになりますね。お菓子ということもあって、小さい子から大きい子まで、ワクワクしながら興味を持って取り組んでいました。教室にも「ヘンゼルとグレーテル」があって、たまにそれをテーマに描かせたりしたこともありましたが、コラージュは初めてでした。56人の子供たちのそれぞれの「お菓子の家」が駅から遺跡までの屋外に展示されたのは、彼らにはいい経験だったと思います。今回台風が2度も来て、撤去してまた設置してと運営の方はご苦労されたと思います。その度に絵の場所が微妙に変わって「先生ワタシのがない」と子供たちが騒いだり、といったことがあって、自分たちの絵を夢中で探してましたけど、そういう変化も面白いと思いました。期間中、授業の中で子供たちを連れて何度か見に来ています。身近な場所で子供たちがこういう展覧会に触れられて、美術がこういう場所との関わりで見られるのも面白いと思いました。

金井:お子さんたちにも楽しんでもらえたようで良かったです。この場所は遺跡とは言え、復元された、言わば再現された空間なんですけど、それが街と対比されることでさらに想像力が刺激される場所になっていると捉えています。隣の古民家の裏に大きいマンションがそびえているのも何か変ではあるんですが、強く印象に残る風景ですし、そういう違和感のある空間を積極的に捉えよう、面白く活用しよう、あるいはここからいろいろ考えてみよう、というのがこのアートプロジェクトのきっかけでした。先日坂上さんとここでお話した時に「発掘に携わった立場としては、もっと当時の空間を感じさせるような形で残ったほうが良かった」というお話が出て、今まであまり遺跡の保全という観点でここを見たことがなかったので、なるほどと思いました。

坂上:私たちの立場としては、遺跡公園として残すのであれば、せめて周りが目線に入ってこないような形で建物の高さ制限をするとか、植樹をして隠すとかそういう配慮があってもいいんじゃないだろうかと。周りを全部目隠ししろとは言いませんが、遺跡を保全、保護していこうという観点からは、やはり周りの景観も取り込むようなかたちでやるべきじゃないかと思います。

金井:坂上さんが発掘に携わったのは1970年代ですか?

坂上:そうです、1972年に予備的な調査がまず始まって、畑だった場所にちょこっと試し掘りのトレンチを何本か入れたんです。そうしたところ竪穴住居と環濠がトレンチの中で確認されたんです。

金井:トレンチというのは?

坂上:だいたい2m幅で10mくらいの長さの試し掘りの溝です。下に何が埋まっているのか、遺跡にどういう土が堆積していて、いつの時代のものが下にあるのか確認するために掘るんですね。そういうトレンチを4カ所くらい入れたところ、竪穴住居と環濠が引っかかったので、ここには大きムラがあるというのは間違いないと分かったんです。それで翌年から体制を組み直して、かなりの人数を集中させて本格的な調査に入ったわけです。何故ここをそういう形で掘ったかと言いますと、実はその前、1972年に隣にあります歳勝土遺跡を最初に調査したところ、お墓が30基近く出て来て、しかも出て来たお墓が「方形周溝墓」と呼ばれる形で、これはそれまで関東地方では弥生時代の終わりから古墳時代の始めになって出現してくると説明されていたんです。ところが歳勝土遺跡から発掘されたのは弥生時代の中ごろ、2000年くらい前の土器だったんですね。それまでの定説を覆すものだったのでみんなが驚いて、墓地がそれだけ古いとなるとその墓地をつくった人たちのムラがきっとこの近くにあるっていうんで、この広い台地の上に試し掘りをしたわけです。その結果、家の跡と環濠が見つかったので間違いなくここはムラだとわかったわけです。このムラと墓地のセットというのは、実は横浜市内ではここが最初ではなくて、昭和42年43年、私がまだ大学にいた頃にすぐ隣の市ケ尾駅の南側に朝光寺原遺跡という大きな遺跡があって、そこでもやはり環濠集落と墓地が見つかっていたんです。ただ残念ながら、墓地の方では弥生時代の土器が一切出ていなかったので、それまでの定説通り古墳時代の始めの頃の墓地が同じ場所に作られていて弥生時代の環濠集落とは時間差があると思われていたんですね。それが、ここで発掘をして歳勝土遺跡が見つかり、さらに隣に大塚遺跡という非常に規模の大きな環濠集落が見つかったことによって、もう一度朝光寺原遺跡も見直すことになり、結果ここも同じように弥生時代の環濠集落とそこに住んだ人たちが残した墓地だと評価が変わったんですね。大塚遺跡と全く同じくらいの時期に千葉県でも同じタイプの集落とお墓が見つかって、関東地方では弥生時代の中頃から方形周溝墓というのが当時の人たちの墓制として取り入れられ、環濠集落とセットというのが当時の大きなムラのあり方だと分かって来たんです。

080f0d_cae1c15b51cf411298f301fed1aa9e3c.jpg_srb_p_981_652_75_22_0.50_1.20_0.00_jpg_srb.jpeg金井:なるほどそういう経緯があったんですね。坂上さん発掘当時はまだすごくお若かったはずですよね?

坂上:今を去ること40数年前ですね。(笑)

金井:私がまだ小学生くらいですね。一度連れられて発掘現場を見学した覚えがうっすらとあるんですが、当時は話題になったんじゃないですか?

坂上:そうですね。新聞にも出たり、何回も見学会をやったりしてました。

金井:やはり当時の発掘は相当、胸躍る感じだったんですか?

坂上:ここでの弥生時代の村の発見というのは、私なんかにとってはまあ驚きというか、期待は大きかったですね。発掘をするたびに今まで分からなかった事実なんかも分かって来て、弥生時代の村のありかたがよく分かりました。

金井:その後の考古学の基礎になったというところもあったんでしょうか?

坂上:ある意味ではそうですね。弥生時代中期の竪穴の特徴とか、住居の構造の特徴などもここで新しく確認されたものもありますし、確かめられたものもあります。逆に何だこれはと、訳が分からないというものも出てます。大塚遺跡の、入って左手に大きな住居跡がありますね。ここに溝が2本出ているじゃないですか、この溝がなんであるかというのは未だにきっちりとした説明がついてないんです。

金井:あの出入り口のようなところですよね?

坂上:そうです。あれを出入り口と見る人もいますし、全く別の祭りなんかに関係するんじゃないかと言う人もいます。もし出入り口なら全ての竪穴住居が同じ構造を持っていてもいいんじゃないかっていう意見もあります。全国的に見ても例えば東海地方なんかでも、ああいう溝を持った竪穴住居というのはあるんですが、やはり誰しも納得いく説明というのはまだできていません。

金井:そこは、かなり想像力というか推理力が必要とされるわけですね。

坂上:そうですね。いくつか類例を当たっていく中でたくさん仮説を立てるわけです。まあ、出入り口に伴うものだろうと想像出来ても、それ以上、何のためにという説明がつかない。今、竪穴住居に入ろうとすると、簡単な丸太で作ったはしごがかけてありますが、あれは当時はもっと急な勾配で、もっと段差があったんですね。竪穴住居は深いものになると人間の背丈くらいあります。ほんとに見上げるくらいの出入り口で、そこからああいう梯子で降りると。そうすると、足の弱った人、老人なんかは上り下り出来ない。そういう人のためにああいうスロープを作ったんではないかという意見をいう人もいます。しかし、そういう想像をしたとして、そこから先、考古学に行くには、何がそれを証明するんだという話に必ずなるんです。例えば溝になっているところがもし出入り口だったら上に何か屋根なんかをかけないと雨水がみんな入って来ちゃう。では屋根をかけたような痕跡が溝の周りにあるかと、いくら調査してもその屋根をかけた柱の跡なんかは見つからないんですね。もし見つかって柱跡が点々と並んでいればこれは屋根をかける柱を立てて、おそらく屋根が掛かっていたんだろうともっと強い根拠ができるんですが、それがない。想像だけで復元図はいくらでも描けるんですけど、でもそれじゃ考古学という学問にはならない。それは想像の世界ですねと言われてしまう。冒頭言いましたけど、どうしても残っている物を基にどう考えていくのかという習性になっちゃっているわけですね。

金井:考古学の世界では、学者さんたちが予想もしなかったようなものの発見って結構あるんですね。

坂上:そうですね。たまたま私が掘っていた部分で、環濠に捨てられた土器の中に、明らかに信州系統、信州の伊那谷の方の土器の特徴をそっくりそのまま持っているのが出て来たんです。それまで信州と深い繋がりを示すような土器が出たのは初めてでした。そういう土器が一個出てくることによって、間違いなくあちらの方と交流があったという証拠になるわけです。それが出て来たときが一番驚きましたね。

金井:大塚遺跡以外で印象に残った発掘などはありましたか?

坂上:この地域で掘ったもので珍しいものと言えば、まず上げられるのが大熊町の上の山遺跡というところで掘った中世のお墓です。南北朝時代から室町時代の頃になりますが、火葬骨が入っているお墓の中から炭になったおにぎりが出て来て、そのおにぎりの中に銭が3枚入っていたんです。

金井:え?炭になったおにぎりの中からお金が出て来たんですか?

坂上:そうなんです。え〜って思うでしょ?

金井:それは、なんか斬新というかビックリしますね。

坂上:上の山の中世墓地は、大体250年間くらい使われていたんですが、埋葬の仕方が、発掘調査で細かく分かったんです。私が掘った中でたまたまなんですが、その場で火葬にした人骨の墓穴があって、その中から炭になったおにぎりとか木製の数珠も出て来たんです。そのおにぎりを事務所へ持ち帰ろうと思って持ち上げたところパカって割れて、アリャって思ったら中から銭が顔を出したんですね。この銭入りのおにぎりは磯子の杉田東禅寺でも出ました。なんでおにぎりに銭を入れるのかというのが分からなかくて、銭も今の仏教的な考えでは六道銭といって6枚の銭を持たせるじゃないですか、お棺に入れますよね。

川口:三途の川の渡し料ですよね?

坂上:そうです。三途の川の渡し賃で6枚用意する。でいくつもの墓の中から銭が結構出て来たんですけど、6枚持っている人もいれば、3枚ってのもいるし、12枚ってのもある。3の倍数みたいに。

小澤:財力のある人だったんじゃないですか?(笑)

坂上:そう考えもしたんですけど、どうも三途の川の渡し賃っていうのは、後から、江戸時代頃に仏教の影響でこじつけたような感じで、もともとは土地の神様から土地を使う、地券を買うよという意味合いで銭を入れて埋葬するという考え方があるっていうんですよ。でもおにぎりの中に銭を入れる例っていうのはあまり見ないですね。死んだときに銭とお米を一緒に袋に入れて葬るとか、地域によって弔いの習俗って全然違うんですね。でも横浜の中世、南北朝か室町の頃に、銭入りのおにぎりを埋葬する風習があったとそれで証明出来たわけですね。わずか2例ですけども、離れた地域の都筑と磯子にあった。それ以外には未だかつて見つかっていません。それが、地域の特徴なのか、限られた時代の特徴なのか、あるいは特定の宗派に関連するものなのか、そこは分かりません。

金井:発掘によって新しい事実が見つかると、その分さらに謎が深まったりするわけですね。先ほど伺いましたら、港北ニュータウン全体で200カ所以上発掘調査されたうち、調査報告がまとまっているのがまだ40件ぐらいだそうですね。

坂上:はい。掘って掘りっぱなしで、まだ全部がきちんと学術的な裏付けをした調査報告書として刊行できてない状態です。全遺跡調査概要というかたちで、おおまかなデータはもう刊行してあるんですけど、一つ一つの村の細かい分析ができるまではやりきれていないです。私たちがニュータウンで140カ所発掘調査をした中で、とりわけ、村の構造がよく分かるという意味で重要だという遺跡が大体30カ所くらいなんです。せめてそれらだけでも基本的な整理をやって、縄文時代の典型的な村の形はこういう格好していますというのを、早いとこ、世の中に出しましょうというんで随分がんばってやったんですけど、やはり予算とかいろんな関係でなかなかそれが出来ないでいます。

金井:でも、200カ所というのはすごい数ですね。

坂上:ニュータウン地域の中には、全部で280カ所ぐらいあるんです。特に旧住宅公団が工事を施工した区域ですね。そこだけで280カ所です。その周辺を含めますと460カ所ほど遺跡があります。住宅公団が施行した区域の280カ所のうち、200カ所ぐらいが発掘調査の対象になってました。残り80カ所のうち、約30カ所が自然公園のかたちで残され、あとの50カ所は当時すでに壊されていました。200カ所のうち、私たちが発掘したのが140カ所で、うち60カ所は調査をしていた最中にもう壊されていった。そういうのもあります。壊されたのは、農家の方達が上の黒い土を植木屋さんに売ってたという事情があります。住宅公団もそこまでそういう行為が行われることを想定してなくて、歯止めをかけるのが遅れちゃったんです。調べなくてはいけないのは、その黒土の上の部分からあったので、もう掘れないとなった訳です。それでも発掘した140カ所の中には非常に規模の大きな遺跡がいくつもあって、その中で最大のムラは三の丸遺跡という縄文遺跡です。池辺町にある清掃工場の谷一つ隔てたところです。縄文時代の竪穴住居だけで380軒出たんです。そこが一番大きな村で、南関東でも5指のなかに入るくらいの規模です。ただその数は千数百年くらいの間に累積された結果ですから、ある時間だけぱっと区切って取り出して見ると、せいぜい十数軒といったところですが、当時のムラとしては規模が大きかったと言えますね。ここ大塚でさえ実際、同時期に存在した家は十数軒だと思います。もう一つ関わった遺跡で言いますと、大熊町の大熊仲町遺跡という縄文中期、4千5百年から5千年前のムラですけど、そこでも170軒竪穴住居が出ています。あと月出松という遺跡でも130軒くらい住居跡が見つかっています。この流域の広い範囲で見ていきますと、全貌が分かっている村が点在していて、他の地域ではなかなか分からない、地域のなかでどういうまとまりであるかというのが、このニュータウンの調査でよく分かったんです。他と違ってここでの発掘は、一つのムラだけでなく周辺のムラとどういう関連があるのかが分かる。そういう意味で、港北ニュータウンの遺跡群というのは貴重なんです。金目のもの光り物は見つかりませんでしたけど、こういう重要なものがこの地域で見つかっているんです。

金井:なるほど、発掘当時の状況や、港北ニュータウンの考古学的位置づけ、重要性などがとてもよく分かりました。ありがとうございました。

松本:伺っていて、先ほどお話に出たアートと考古学的アプローチの共通項として、見つけたモノへの批評精神というのがあるように思いました。ある発見をして、これはどういうものか意味が分からないとか、そういうことから始まったりするのかなと思いました。僕の好きな映画「猿の惑星」のラストシーンで、過去の遺物を発掘している猿の考古学者が「分かんない」って言っているシーンがあるんですが、先程のお話と重なるところもあるなあと感じました。今ある文明が滅びた後、その次の人たちがこの文明の遺物をどう見るかと考えると、今見て分からないものが当時はどうだったのかともつながってきます。先程の銭入りおにぎりも、当時の人に聞いてみたら意外と「ただのへそくりでした」みたいな身も蓋もないことかも知れないと思ったりもしました(笑)。アーティストがここに来て時間的なパースペクティブを見つつ復元されている竪穴を見て、何かをつくる。もしかしたらいろいろ置いちゃうと、普通に古代の生活などを想像したい人には邪魔になってしまうかも知れませんが、批評精神というか、ここを見てこう思ったとか、こういう想像をしたとか、作品として提示されたものからまた考えてもうらうという方法もあるのかなと思っています。

金井:ある意味、展覧会というのは、たくさんの仮説を作品という形で提示する作業とも言える訳ですね。作品を通して現実の見えにくかった側面が見えてくるとか、違った面が浮き彫りになるとか、あるいは今までとちょっと違うかたちで歴史を体感するとか。個々人の歴史感覚のようなものを表現の中で見直すということも、この展覧会の役割なんじゃないかと思っています。そうすると考古学などの学問とは違うアプローチで歴史とコミットできるのかなと思ったりもします。

松本:よく言われる批評として、美術とか文化的なものは残るみたいな、でもそれって絵とかは残らなくて、石でできたもの、ピラミッドとか、そういう説明をしなくても、文化的に使っていたに違いないというものが残るというのを聞いたことがあるんです。メキシコにこの間行って、テオティワカンも視察してきたんですけど、これも聞くところによるとマヤ文明の人たちが訪れた時にはすでにこれがあったというんですね。アーティストの中には石で作らないと残らないと思っている人もいるし、じゃあ残すっていう考え方っていうのはどういうことなのかとか、作るっていうところで自分に引き寄せて考えることは大事かなと思います。それから、例えばピラミッドもただの墓じゃないんじゃないかって言ってる人もいますし、銅鐸なんかもただの祭事的なものではなかったんじゃないかという説もあるんですが、歴史的に残ったものも固定化せずに眺めてみるという、そういうことを考えながらプロジェクトに参加しています。

小澤:松本さんのお話とつなげると、残そうと思って残したものと、偶然残ってしまったものってあると思うんですね。さっきのおにぎりのお話も、たまたまだったのかなと。でもそれについていろいろ想像していくというのがやはり興味深いですよね。

川口:そうですね。例えばおにぎりにお金を入れるっていうときに、やはりそれをした人に何か、或る気持ちがあったと感じます。何かのためにという理由とか、科学的なことからちょっと離れた言葉に尽くせない人の気持ちが背後にあったのでは、と。私は、それはものを作るときの発露と一緒なのではないかと思います。以前、考古学のアルバイトをしていまして、最初は発掘調査の仕事だったので現場で土器片なんかが見つかるのですが、明らかに技術や嗜好の差などもあって、そういうのに人の生きた軌跡が垣間見えて共感しました。下手なりにがんばってつくってあるのとか、細工が細かいとか、本当に造形的に稚拙で適当に作ってあるのとかもいろいろあって、やはりモノを作っているときの気持ちと言うのも古代でも現在でも一緒で、なにかを表現するということにおいてその人なりの志向や個性が現れているということではないかと思いました。

小澤:ニュータウンのこういう場所は、近所に住んでる者にとっては身近に歴史体験出来る貴重な場所ですね。

金井:歳勝土遺跡なんかは、古墳の真横で子供たちがサッカーやっているんですが、そういうのもここならではですね。

川口:ただ子供たちが、それが人の軌跡であるというところに気持ちが向くといいなとは思いますね。

松本:長野県の木崎湖というところで、「原始感覚芸術祭」というのを毎年やっていて、見に行ったことがあるんです。ここはなかなか趣があって、周りが森に囲まれた湖のロケーションが古代の感覚を残しています。そういうところで作品を置くからアーティスト一人一人がそこにどうアプローチしているのかっていうのが、原始感覚と称したものにつながっている。だから都筑も多分、パースペクティブが古代の風景を想像しきれないところと、想像出来るところのせめぎ合いがあって、やや現代寄りになってきちゃっているところがあると思うんで、先程、金井さんから出た歴史的なアプローチというのを工夫していくというか、取り戻すような傾向がこのプロジェクトにもうちょっとあってもいいのかなと思います。

金井:確かにここは、パースペクティブ、古代と現代の遠近感が強い場所で、人によって感じ方は違うのでしょうが、遺跡から見ると、どちらかというと今の時代の奇妙さみたいなものに傾きやすいかもしれません。でもここに来ると自分が長い歴史的な時間の果てに居るんだなあというのをしみじみ感じる一方で、歴史的なものと遠く隔てられているということも強く感じます。それはなぜなのかということも含め、その両方が歴史的なものとのつながりを求める気持ちとして少しずつ意識されてきたのかな、とは思いますね。

木村:私は都筑民家園の者なんですけど、歴史ということに関して、最近ここら辺の人の行き来、みたいなものに注目しています。人が行き来することによって様々な文化的な反応が出てくるものなのかなと思います。だから古代とは言っても静かな状態ではなくて、先程言われたように数十戸の家が壊れてはまた作られ、積み重ねられて、ずっと人が住んでいて、それがなぜかこの場所ではいろんな意味を持ってずーっと折り重なって来たと。それは時間的にも、たぶん流域的にも結構いろんな時代ごとに交わりがあったがために残って来たのかなと勝手に思っています。私がニュータウンに20年前に移って来た当時は、何にもないと思っていたんですが、住んでみていろいろなことが分かってくると、さらにこの場所の事を知りたいと思うようになりましたね。今、そしてちょっと昔と、もっと昔という話題などで子供たちと話すようになると、様々な世代間の交流が生まれて、世代ごとの新しい活動につながってくるんじゃないかと思い始めています。

金井:なるほど。歴史を仲立ちにした交流というのは可能性を感じますね。今回展覧会に、富士塚研究家で美術家の有坂蓉子さんにご参加いただいて、都筑区の富士塚についてもいろいろ教えていただいて面白かったんですが、木村さんのお話とつなげると、これは江戸時代ですから「ちょっと昔」の話になりますね。

有坂:富士塚は江戸後期から冨士講と言われるサークル集団が作ったと言われています。いろいろ見ていますと、聖地や遺跡もある意味そうかもしれないですけど、やっぱり人が惹き寄せられる気持ちのよい場所を選んで作っていると思われるところがあって、神社やお寺もそうですが、富士塚もそういうところがあります。それと富士山がよく見えるところにも作られて来たようです。都筑区に7つあったと言われているけれど、今残っているのは3つあります。どうもなんか理由があるんではないかと思って横浜にはよく通っています。今回、富士塚がらみのことをやりたいなと思ったのは、やはり昔の人がどんな気持ちで富士山を眺めていたのか、富士塚の残る地域で一緒に考えてみたかったということがあります。いろいろ想像しながら、当時の富士塚はこんなだったに違いないと仮説を立てて作品をつくり、それを通して縁があってこの辺りに住んでいる子供たちにそのかけらでも味わってもらえたらと思って参加しました。何かの結論を出す必要はないんですが、富士塚の不思議感とか楽しい部分など、いくつか共通項があるだけでもアーティスティックにシェアできるのではないかと思っています。

小澤:子供たちと楽しませていただきました。なんかビー玉を上から入れると良いことがあるような気持ちになりますね。持って帰ったビー玉を神棚に置いたりしてたみたいです。

坂上:お話を聞いていて思ったのは、私たちはモノを通して人間の生活がどんなものであったか、ひとの考え方っていうのはどんなだったのか、最終的にはそこをなんとか復元したり、理解したり、ということをやっているんだろうと思うんです。みなさんのお話の中で想像という言葉が出ていましたが、そういうことを皆さんが形にしたものが表現、芸術というものかと分かったんです。最初に言いましたように、確かに私も頭の中で想像はしますが、考古学ではあくまでもそれが空想ではなくそういうものであろうという想定で、それを証拠だてるものはこれなんですよという、その証拠を添付して出さない限り学問として認められていかない。そこが辛いとこと言っては何ですけど、それはできないということですね。でも皆さんはそこを自由に表現してるんだなというのがよく分かりました。

松本:想像と現実ということかもしれませんね。「AI」という人工知能をテーマにした映画があるんですが、その中で人間そっくりの子供のロボットをつくって、何千年と時間が経ってから宇宙人がその子供のロボットを見つけるんです。それがあまりにも高性能なロボットなのでそっくりそのまま残る訳ですね、そうすると宇宙人が、それが未来の人類か他の星からやってきたのかは分からないんですけど、これはまさしく人間のサンプルであると捉えるんですね。そうするとやっぱり、その映画自体は想像の賜物なんだけれど、もし本当にそこまで残る、限りなく人間に近いロボットをつくったら、他の知性が見た時にこれが人間だったというふうになるのかなと。想像と現実は一見平行線なんだけど、どこか遠いところで交点が得られるんじゃないかって思いました。

金井:前半に竪穴住居の出入り口の仮説のお話がありましたが、仮説形成という点では恐らく考古学も芸術表現も同じなのかなと思います。ただ芸術表現に於いては、手がかりとなる根拠の幅がかなり広いということが学問との大きな違いでしょうか。誤解していただきたくないのは、芸術表現だからといって根拠なくただ漫然と空想をめぐらせて、それを作品と称しているという訳ではなくて、作り手は、身の回りの物事を手がかりにしながら、なんというかそこから論理的に想像していって、例えば遺跡とか歴史がテーマとなったら、それが自分にとって一体なのかということも含めて考えながら、それを説得力のあるかたちに起こして提示するという作業を行っているわけです。そしてできれば提示した作品が多面的な広がりを持ったものとして伝わって欲しいわけですね。

吉川:ただ想像するっていうのだと表現とか芸術である必要はないし、それは自分の趣味でもいいわけじゃないですか。ただ、芸術表現という人に見せる客観的なものは、動機として最初から他者を含んでいる訳だから、自分だけの想像だけではないと思います。常に周りの状況を通過した表現が、僕は芸術じゃないかと思っています。自分が好きなものをただ頭のイメージでつくるっていうのとはちょっと違う。それは人に見せる必要のない表現というか、趣味に近いというか、自分で満足する確認するって言う作業。ただ美術っていうのは唯一そこが自分で満足できない、他者の存在が必要で、まさにこういう展示をするっていうことなんですけど、何故それをするかっていうのはものすごく大きくて、それをするっていうのは、独りよがりではないだろうと。きっと表現者というのは何か外的な要因を含んだ表現をしているんじゃないかと思います。だから子供の絵とは違う。それを美術として捉えるかどうかは別として、子供たちは自分の満足というか自分に向けて描く、それを大人が芸術と言うわけで、子供は決して自分の作品を芸術とは言わない訳です。広げて言うといわゆる障害者の方たちのアートも大人がそれをアートだと言うわけで、彼らは自分で一つの表現をしている訳だけど、それは内的な表現であると思うんです。だからそう考えると美術って非常に幅が広くって、それを混同してしまうと難しい問題になってしまうと思うんです。ここで話されているものは、やはり他者っていうか第三者みたいなものを含んでいるからこういうところでやるんだと思うんです、ただの自己満足ではなくて何かメッセージがあると、そういう風に捉えたいと思って見てます。そうすると考古学とは違いますけどある意味客観性と言うか、イメージだけではないものがそこにはあるんじゃないか、だからこそ好き嫌いじゃなくて、共感というものが生まれるのかなと思います。

松本:美術とか、芸術とか、学術とか「術」と言うものの中に他者性へのアプローチが含まれていますね。例えば研究発表と展覧会っていうのはある意味同義ですか?

とし田:違うかな〜。対象が違うから違うんじゃない?

吉川:どうですかね〜(笑)

松本:対象が違う?

吉川:ただ出来てしまうものはもしかしたら一緒かもしれない。

とし田:考古学だと、例えば実際に使ってたから意味があるとか、そういう捉え方になると思うんだけれど、アートの場合は全く無意味でもいいわけで、無意味なことで意味があることもありうる。その時に人間の発展段階の違いもあるとは思うんですけど、アートを考える場合必ずしも使い道で考える訳じゃない、というところが考古学とちょっと違うところかなと思うんだけれど。

吉川:美術に無意味なものも含まれるというお話がでましたが、でもそういうのが言えるようになったのってここ150年くらいのことで、それ以前のものはほとんど用途っていうか、美術って言われているものの99%が、別の用途で作られたものを美術って呼んでるわけですね。つい最近になって芸術のための芸術みたいなものが登場してきたと、その変化ってすごい大きいと思うんですよ。美術館に行くと、ギリシャ時代から全部美術って呼んでますけど、9割は違うようなものを美術って呼んでると思うんで、僕らが今普通に美術って言うものをお互いに共通概念のようにやり取りするのって本当に最近始まったことっていうか、近代的なものだと思いますね。

とし田:そうですね。だから今後、ここのニュータウン性みたいなものは、やはり考えていかないといけないんだと言う気がします。

金井:ここは、歴史的な視点で日本の近代や戦後を眺められる場所でもありますね。

吉川:典型的な街っていうか、なんかすごいところですよね。道がどーんと広くてアメリカ的なところがある一方で遺跡なんかもたくさんあって、激変した街ですよね。

金井:坂上さんから伺ったのですが、発掘があと10年延びていたら、80年代に入って都市開発の仕方が変わって、今のように遺跡が3分の2も削られず、集落遺跡全体が残された可能性もあったそうです。もしそうだったらニュータウンの中心部の街並が今と大きく違っていたでしょうね。

坂上:そうですね。70年代のニュータウンに対する世間一般の建築家たちの考えと、80年代になってその70年代のニュータウンを見直し自然と共生していこうという考えとでは、やっぱり違いがあるんです。私たちは残念ながら70年代に掘ってしまった。80年代にやっていたら多分残ったんじゃないでしょうか。そしてニュータウンそのものもこんなかたちの大開発ではなくて、もっと自然を取り込んだ街になったんじゃないかなと思います。そうするとそれに伴って遺跡も残る、自然も残る、習俗などいろんなものが残ったと思うんですよね。ニュータウンの開発の時にいろんなものが消え去るから調査をしましょうということで、埋蔵文化財の調査団だけではなくて、実は動植物の調査団とか民俗の調査団などが組織されたんですね。近年、昔のお祭りなんかを復活させて残そうという地域の動きもあります。一方でみなさんのように、原始古代と現代が同居しているところに違和感はあるけれど、それをかえって面白いと捉えるという発想もやはりあるんだなと思いましたし、そういう発想からいろんなものが生まれてくるというのは、なるほどと思いました。お話を伺ってから展示作品を見てみると、もしかしたらこういう考え方のもとにこういう表現があるのかなと、うなずける部分もあります。

金井:好意的に見ていただきありがとうございます。今日は坂上さん初め、皆さんからいろいろなお話を伺えて有意義でした。今後の模索につなげていきたいと思います。本日はお忙しい中ありがとうございました。

座談会:都筑アートプロジェクトのこころみ