ウタグリ部会




















































ウタグリ部会

 芸術表現を通して世界と関わり、世界と自分との様々な関係性や繋がりを理解し、自問することで、自分という存在の自律性を考えることが、私にとっての芸術実践であると言える。
 私の芸術体験は新表現主義やグラフィティアート、そしてポストモダニズムといったアメリカンアートの潮流を経て、90年代の多元文化主義へと収斂されていった。多元文化主義の鏡を通すことによって自分の社会的位置づけが明確になり、自分を規定している時代性や歴史性、そして諸々の固定観念、規則、慣習、といった価値観やリアリティを相対化することができた。この相対化のプロセス自体を作品化することが私の芸術実践である。
 都筑アートプロジェクトへの参加は、自身のスタジオにおいての制作活動とは根本的に異なる、サイトスペシフィック・インスタレーションへの興味から始まった。ロマン主義的な個人としてのアーティストという範疇を越えて、今ある現実に介入するため、より多くの他者を交えた社会性の高い共同制作を実践する方法論を探究したい。

「Art Space 赤い家」ディレクター/アーティスト・とし田みつ夫

NYコミュニティーガーデン盛衰史

はじめに
0003.JPGニューヨークといえば、高層ビル群の摩天楼や碁盤の目の街路から想像されるコンクリートジャングル都市というイメージが強いと思う。しかし、今や日本人観光客にもニューヨークの目的地の一つにもなっているイーストビレッジを散策していると、街角に点在しているコミュニティーガーデンの存在に気づくだろう。僕は在米日本人としてニューヨークに25年の長きに住んだものだが、イーストビレッジには1981年から88年までの7年間住んでいた。学生時代、美術大学SVAのクラスメートが管理人をしていた東9丁目とアベニューBとCの間にある、元々は下層労働者のための小さなアパート、当時としても破格だった家賃270ドル、に紹介してもらい住み始めた。イーストビレッジでもディープ東のアルファベットシティーと渾名されるこの地区は、当時まだ犯罪多発地帯で、治安の悪いことで知られていた特にトンプキンス・スクエア公園の更に東側ギャングやドラッグディーラーの活動が問題視されていて“ヤバい”雰囲気が漂っていた。ローワーイーストサイドも含め、廃墟化したビルや、瓦礫の空き地が目立って多かった。しかし、元々下層労働者階級の街であると同時に、50年代のビート詩人などを始めとする“ボヘミアンの街”という歴史的側面を持つイーストビレッジは、家賃が低い地区であることからも、アーティストや学生に人気が高く、自由で活気のある若者の街になりつつあった。初めてセントマークス通りを歩きながら感じた自由な雰囲気は、今も忘れられない。

名物男、アダム・パープル
0018 (2).JPGーワーイーストのコミュニティーガーデン造りに関して僕が初めて知るきっかけになったのはアダム・パープルの存在を通してだった。リズ・クリスティーコミュニティーガーデンとともにコミュニティーガーデン造りの走りでもある「エデンの園」の創造主である。長い髭のヒッピースタイル、その名の通りの紫色の服(コスチューム?)、そしてイージーライダー張りの荷台付き自転車にまたがり街を行くアダム・パープルの姿は、道行く人々の注目の的だった。見た目、年令不詳のこのオッさん、一体全体何者だろう?僕も興味本位で眺めていた一人だ。アダム・パープルは1972年にローワーイースト、184ファーサイス街のビルの居住者になり、ビルのスーパー(管理人)をしていたが、そのビルの所有者がビルを放棄したため、事実上、残された住民が自主的にビル管理を行う状況になっていた。電力供給会社の請求書を巡り、このビルの新しいオーナーとなったニューヨーク市との間でいざこざが起こる。ニューヨークの条例ではビルのオーナーが電気、ガスを提供する義務があるのだが、市側はこれを拒否。サービスが中断された結果、テナントは徐々にビルを去り、アダム・パープルだけが最後に残った。彼は都市がその住民に保証する基本的なサービスである電気やガスさえ無い生活を強いられる。この時、アダム・パープルは嘆いたりはせず、近所を見渡し、見捨てられ、廃墟化している空き地を使ってガーデン造りを思い起ったのである。前述した自転車で培養土用の馬糞をセントラル・パークから運んで来たり、植林をしたり、地道にガーデン造りを進め、拡張して行った。数年後、このガーデンが「エデンの園」として注目を集最盛期には巴印のある中心部から5区画にも及ぶ空き地にまたがり、45種類の果実や木の実などをった、まさに都会のオアシスといったガーデンに成長していた。世間からの反響も大きく,ナショナルジオグラフィック誌を含む,多くのニュースメディアに取り上げられ、旅行者の目的地にまでなったのである。しかしながら、こういった実績にもかかわらず、ニューヨーク市は連邦裁判所の命令を無視し、低所得者用の住宅の必要性という名目で、近隣住民やサポーターの反対を押し切り、1989年2月に「エデンの園」をブルドーザーで真っ平らに潰してしまったのだった。低所得者用住宅というエサで、貧民層同士を分断対立させるという行政お得意の戦術が成功したのである。アダム・パープルの言葉をそのまま借りれば、行政の管理の外側にあった「エデンの園」は“市にとっては脅威”であったのだろう。

立ち上がる、コミュニティーガーデン!
0019.JPGアダム・パープルが「エデンの園」を造り始めた70年代のニューヨーク市は中産階級が郊外への流出したために財政危機に拍車がかかった。ローワーイーストサイドなどはスラム化が進み、消防署や警察署は縮小され、行政からも見放された地域となっていた。そのような背景の中で、80年代に入ってからも地域住民が中心になり、スラム化する自らの居住区をギャング暴力やドラッグビジネスから守るため、コミュニティーガーデン造りはますます盛んになって行った。コミュニティーガーデンによって、単に街がきれいになるだけではなく、その地域の治安維持のためにも大きな効果を発揮したのだ。そして以前は危険で出来なかった近所付き合いもコミュニティーガーデンを通して出来るようになったり、でこれが本当の一石二鳥。更にコミュニティーガーデン造りのノウハウを伝授するグリーンゲリラなどが組織され、サポート体勢も整い、90年代初頭にはイーストビレッジ界隈だけでも60以上に及ぶコミュニティーガーデンが誕生している。これら全ては住民が自ら瓦礫を片付け、植物や野菜を栽培し、長い時間をかけて作り出した手造りのガーデンなのである。マスタープランナーによって整合性を追求するような庭造りではなく、複数の個性が混じり合う、てんでバラバラ、花あり、草木あり、野菜に果物,池と噴水、彫刻もあれば壁画、時には物見塔まである、勝手気ままな雰囲気なのがいいところだ。

再開発、不協和音
0038.JPGミュニティーガーデン造りが盛り上がる一方、80年代中頃から、イーストビレッジでは若い世代のギャラリストたちが借り手のなかったストアフロント等を改築して画廊を開業し始めた。グラフィティーアート系を扱う画廊が最初にでき、徐々にネオコンセプチュアリズムといったハイアート系に移行していった。そんな影響もあり、イーストビレッジは若者文化の中心地としてブランド化され、ファッショナブルな街へと変身を始めたのである。街角には洒落たレストランやお店が次々にでき始め、週末になれば金持ちのアートコレクターがリムジンで画廊に乗りつけるといった光景を目にもした。ジェントリフィケーションの波がイーストビレッジに上陸したのである。この時期、イーストビレッジが抱えていた矛盾を最もよく表したのが、88年に起きたトンプキンス・スクエア公園での警察官による暴動(police riot)事件である。その頃トンプキンス・スクエア公園はホームレスたちが夜を過ごす避難所のような役目をしていたが、多分、新しくイーストビレッジに進出してきたヤッピー系の住民やビジネスオーナーからの要請があったのだろう、8月のある日、突如公園に現れた警官隊がホームレスはもちろん、公園にたむろする近隣住民を暴力的に追い出しにかかったのである。この掃討作戦、警官たちは明らかに計画的であった。肩のバッチの番号をテープで覆い隠す周到さを持って、こん棒を降りかざしたのである。ベンチに座っていただけの僕の友人もこん棒で殴られそうになっている。その後も地域住民やアクティビストらの抗議にも拘らず、公園の大部分は高いフェンスで包囲され、夜間は全面的に閉鎖されてしまった。こうして公園は管理しやすい空間にリフォームされたのである。警察官の暴挙を目撃した公園西側の通り向かいにある地元庶民に人気のレストラン“オデッサ”は、そうとう頭に来たのだろう、暴動の後、しばらくの間「警察官お断り」のサインを店先に出していた。

ザ、けんなよう!
0041.JPG1994年、共和党のルドルフ・ジュリアーニが市長になると市の財政赤字を埋めるために、突如、コミュニティーガーデンを“放置された空き地”として競売にかけることを発表した。寝耳に水のコミュニティーガーデン関係者は驚愕した。確かに法律上、コミュニティーガーデンの土地は、その多くは住民がニューヨーク市から1年毎に借りているから市の所有地ではあるのだが、何十年も放置していたのは市側であり、住民が自分たちの手で、整備し、造りあげたコミュニティーガーデンをジェントリフィケーションで地価が上がったとたん取り上げて、再開発を進めるというのだから、ハイエナ商法である。ジュリアーニ市長は「土地を維持し管理したものにはその土地の所有,利用権が発生する」という法律の存在をも完全に無視したのだった。もちろんこれに対し、住民側は対抗組織 ”ガーデン保存連合”を立ち上げ抵抗を試みるが、東8丁目のABCガーデンが96年に破壊されたのを皮切りに、97年には知名度の高かった“チノ・メンデス壁画ガーデン”他数カ所が犠牲になった。98年のジュリアーニ市長再選のセレモニーを抗議者たちが妨害したが、その後も続く抗議運動にも拘らず、まず3つのガーデンが競売にかけられ、ニューヨーク全体では741にのぼる1年リースのコミュニティーガーデンを“空き地”として分類し直すよう命令を下した。競売会場では抗議者たちが何千匹ものバッタを放すという撹乱戦法を展開したが、残念ながら更に、4つのガーデンと2つのコミュニティーセンターが競売にかけられた。99年には何と112のコミュニティーガーデンの競売が発表され、ジュリアーニ市長は自分が出演したラジオ番組で自分の政策について「共産主義は壊滅した、これこそが自由市場経済だ」とうそぶいた。その後は更に抗議デモは過激化し、警官は強硬化された。デモのたびに30人とか60人とかの逮捕者がでる結果を招いた。結局、歌手のベッド・ミドラーの主催する自然保護の基金ともう一つの団体が、ジュリアーニ市長と交渉し4億ドルでこの競売にかけられたコミュニティーガーデンを買い取ることになったのだった。またニューヨーク州の検事総長エリオット・スピッツァーは市を相手取り、これらの住宅区域における空き地の割合が法律上の規定を満たしていないという理由から訴訟を起こし競売を停止させ、2期目のジュリアーニ市長のやり逃げモードに水を差した。2002年、スピッツァーと市行政との示談交渉の結果、多くのコミュニティーガーデンは市管轄の“公園”という新しいステータスに組み込まれ、同時にいくつかを犠牲にすることで、その存続を恒久的に確保した。

おわりに
ジェントリフィケーションが進んだイーストビレッジは、商業的にも栄えて、お金持ちのNYU学生が闊歩する街に変容している。ちょっと意地ワルな言い方をすれば、現在のイーストビレッジはレプリカ化した「若者の街」のように見えないこともない。日本人の若者たちも多く住み、リトル東京化も進行している。そんな時代動向の中、コミュニティーガーデンは市公認の“公園”という地位に格上げ(?)なった訳だが、コミュニティーガーデンは断じて“公園”ではない。あくまでも地域住民が自ら管理,維持するコミュニティーの“庭”なのであり、人と人とのつながりが生まれ、育つ場所として受け継がれて行かなければならないのだ。

September 24. 2018


トシダミツオ
美術家、全米巡回展[アジア/アメリカ]を始め,数多くの個展,グループ展に参加。同時に執筆、キュレーター活動も行う。非営利組織「ジパング」のメンバーとして日英バイリンガルのニューヨーク・タイムス紙日本報道批判本[笑われる日本人]を出版。ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツで教員を務めた後、2005年暮れから横浜を基盤にアートとコミュニティーの関わりを追求する活動を模索中。法政大学国際文化学部講師。

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